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『馬関戦争とうに瓶詰の歴史』

岸釣りや 波立て過ぎし 鰡(ぼら)の列
              −水原 秋櫻子−

古来より、日本の三代珍味と言えば「雲丹(うに)、海鼠腸(このわた)、鱲(からすみ)」といわれています。

先の句にある「鰡」の卵巣でつくられたものが“からすみ”であることはよく知られていまし、親である鰡は俳句の世界では9月の季語にもなっています。

ここ関門海峡で採れる魚は「鯛、鯔、鱸、真蛸」と豊富ですが、それぞれのシーズンには、釣り人で岸壁が賑わいます。
ただ残念ですが、鰡が波を立て泳いでいる様は見たことがありません。

今日はこの鰡の話ではなく、関門海峡が舞台となった馬関戦争とうに瓶詰めの関わりです。

馬関戦争は1863年〜1864年にイギリス、アメリカ、フランス、オランダの四ヶ国が、長州藩の海峡封鎖に対してとった戦争ですが、連合国側の近代兵器の前に長州藩は無残にも敗れ去ってしまいました。

この戦後の賠償問題に、藩を代表して高杉晋作が交渉の場につきました。

連合国側の要求は、高額な賠償金と下関市彦島の租借の要求でしたが、高杉晋作は彦島の租借を拒否、賠償金は江戸幕府に支払わせることにしました。

江戸幕府は賠償金が余りにも高額なため、三分の一しか負担しませんでしたので、その代わりとして連合国側は12の条件を出しました。

その一つの中に、日本周辺を安全に航海するための灯台建設が含まれていました。
その内の一基が、1871年に下関市六連島に建てられました。

その灯台建設の際、外国人技師が食事時に飲んでいた酒(ジンかウィスキー?)を生ウニの上に溢しました。

そのウニを食べたところ大変美味であることを発見しました。
そのことが、下関のアルコール粒うに発祥となった訳です。

近代国家のきっかけとなった馬関戦争が、うに瓶詰めの生みの親となった歴史でもあります。

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